ハトだって空を飛ぶ

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低温調理の安全性について~と畜場から食卓まで~

サボりすぎていた!! 申し訳ない気もしないし謝らないが、お久しぶりですね。創作以外の長文を書く気が出なかった*1から更新しなかった。特に何も変わっていない。

だけれど再び更新する気になったのは自分のツイートが発端になる。

 

 

このブログでしょっちゅうやっている低温調理についてだ。うん、そう、確かに食の安全は気になる。豚肉や鶏肉には良く火を通せだとか、中心温度75℃で1分間だとか、2気圧かけて120℃20分間だとか、他にも色々と食の安全を守る指示がある。

ところが低温調理はどうだろう。62℃だとか、低くして56℃とか、厚生労働省とか保健所が求めている食中毒予防に合致しない調理方法だ。時間はかけているけれど、それで食あたりとかしたら嫌だ。特に人に振る舞って他人に体調不良を起こさせたら一生の遺恨となりかねない。

味覚嫌悪条件づけ*2はたった1発で形成されうる*3し、忘れがたい*4上に、初めての低温調理ではなじみがないためにより強く*5学習されてしまう。これは生物が培った防衛機制の1つなのだろうが、少々厄介に思える。

さてここで人々が生煮えの肉を好むか嫌うかはどうでもいい。ここでは安全か危険かを吟味する。

まず安全な食肉の喫食には3つのファクターがあると私は考えている。

 

  • 温度
  • 時間
  • 発症菌数

 

以上3つのファクターだ。そして長くなるからまず低温調理について要点を言おう。

 

  • 規格基準に則って管理された食肉の内部はほぼ無菌であること。
  • 主要な食中毒原因菌は55℃以上では増殖できないこと。

 

以上の2点から55℃以上で行うブロック肉の低温調理は安全だと言える。ここから先は詳細や根拠が続く。

 まず肉が無菌であることについて。意外にも肉は本来なら無菌だ。生きている動物の筋肉組織は外部との接触がない上に免疫系もあって無菌状態を維持できる。横紋筋内で生活する旋毛虫という寄生虫が居るが、と畜場法施行規則において旋毛虫の感染食肉は全廃棄の対象となるようだ。

そんな清潔な肉を使ってどうして食中毒が起きるかと言えば、やはり調理の問題と言える。さらに厚生労働省が発表している「平成28年度食品の食中毒菌汚染実態調査の結果について」を見てみよう。

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11130500-Shokuhinanzenbu/0000155568.pdf

低温調理で使う塊肉の参考として、カットステーキ肉の行を見て欲しい。E.coli、サルモネラ菌腸管出血性大腸菌カンピロバクター全てで0パーセントか数パーセントの陽性率を保っている。

ここまでで実態として肉はほぼ安全だと言えよう。小売店までの流通過程において厚生労働省は10℃以下での保存を求めているし、全国食肉事業協同組合連合会の基準では肉を4℃前後という10℃にも達しない温度での管理を求めている。

輸入肉はもっと厳しい。日本の輸入牛肉の約9割を占めるオーストラリアとアメリカ、豚肉の輸入先としてカナダではHACCPによる食肉衛生管理が1990年代には義務化されている。日本はHACCP導入が進んではいるが義務化には至っていない。その点では海外に劣っていると私は思う。2020年までにはどうにかなるらしいが。

それはさておき、一般に店頭で販売されている食肉は安全だと言える。食肉を加工したり販売したりするには関連法規に従って届け出をしなければならないし、定められた規格基準が守られる限り消費者は安全な肉を食べることができる。保健所の監査も定期的に行われていて、違反があれば取り締まられる。心配なら肉の加工場や小売店が行政処分を受けているかどうかや、食肉がHACCPが導入された施設を経ているか調べるべきだろう。また牛肉はBSEを受けてトレーサビリティ法がある。

しかし食肉が小売店まで到着する過程で絶対に汚染が起きないかと言えば、そうでもない。解体の際に肉と内臓を分けるが、その際に消化管などを傷付けて漏れた内容物が汚染源となる。解体の際には腸と食道を縛ったりビニールで覆ったりで肉を汚染しないようにしているそうだが、それでもやはり完璧には無理だ。また、死ねば免疫系も止まるので表面に付着した微生物を殺せない。現に厚生労働省の食中毒菌汚染実態調査でも完全に陰性という訳ではなく、たまに食中毒菌が検出されている。救いなのは保存温度を低く保っていれば微生物の増殖はほとんど停止していて汚染が拡大しないことだ。

人類が火を利用する理由はそこになる。火によって人類はより安全な肉を食べられるだけでなく、消化に時間を取られなくなった。火によって人類は余暇を得て今日の発展に繋がったと私は考えているが、その話はどうでもいい。

話を戻せば調理には安全と易消化の2つの目的がある。味を追求したり、他人を楽しませたりといった二次的な目的を含ませて初めてそれは料理と呼べる。また話が逸れたが、調理には安全の確保という重要な目的がある。具体的に言えば食べても安全になるまで材料に付着している菌か毒素を減らせれば良い。低温調理はその目的を達成できるのだろうか。

まず厚生労働省が示す食中毒予防の家庭向け指針を見ると中心温度75℃で1分以上の加熱が求められている。肉が固くなる原因としてのアクチンの熱変成は65.5℃から始まってしまうので低温調理の目的にはそぐわない。

では低温調理が危険なのかと言えば、そうでもない。厚生労働省が示す食肉製品の成分規格には特定加熱食肉製品というものがあり、それは「中心部の温度を63℃で30分間加熱する方法またはこれと同等以上の効力を有する方法以外の方法による加熱殺菌を行った食肉製品」を指している。文章の後半が破綻しているような気がするが、つまり中心部の温度63℃を30分間保つかそれと同等の効力を持つ加熱殺菌を行えば安全と言えるまで菌を減らせる訳だ。63℃と低温調理を名乗れるまで温度が下がった。

同等の効力を持つ加熱殺菌とは温度を下げてより時間をかける殺菌方法だ。55℃なら97分、57℃なら43分、59℃なら19分と、温度が2℃上がると時間が半分になる具合に示されている。低温調理では肉を柔らかくするために殺菌に必要な時間以上に加熱する例がほとんどだろう。だから加熱殺菌の要件はクリアできる。

しかしなぜそんな低温で殺菌ができるのか。それは細菌も生存期間が限られている上にストレスに晒されると生存期間が短くなるからだ。増殖できなければ減る一方になる。55℃という数値は主要な食中毒原因菌でも高い耐熱性を持ち、48℃でも増殖可能なセレウス菌を基準にしている。

ここでアメリカ農業省が公開しているPathogen Modeling Programを見てみよう。サルモネラ菌平成27年の実態調査で陽性と出ていて危険度が高いと考えられるからHeat Inactivation*6のSalmonella Serotypes (Ground Beef)を選ぶ。

食塩は0.9%添加し、生肉にピロリン酸ナトリウムが添加されているとは思えないから0%としよう。すると56℃を168.1分保てば菌数を6.5ケタ落とせる。これはつまり1グラムの肉に1000万個のサルモネラ菌が生きていたとしても3.2個まで落とせるという意味だ。サルモネラ感染症を起こすには10万個の菌数を摂取しなければならないから十分ではないだろうか。というかこの試算はブロック肉と比べて菌数が多く危険なひき肉のモデルなので、ブロック肉ならもっと安全だと言える。

また低温加熱だけでなく香り付けにメイラード反応を起こすため表面を焼くが、これも重要な殺菌処理である。一般にフライパンの温度は180℃程度で、1分も焼けば表面の殺菌はできるだろう。牛乳の超高温瞬間殺菌方式は140℃前後で数秒の加熱をするが、それだけで熱に耐性のある菌も始末できる。またメイラード反応によって活性酸素が発生するとの報告もあり、それも殺菌の一翼を担う可能性がある。ブロック肉の内部はほぼ無菌で表面に付着した微生物が問題だとすれば、表面の焼成によって安全性は大幅に増すだろう。

さらに言えば低温調理では真空パックジップロックに入れ空気を抜いて加熱をする。だから好気性菌の増殖を抑えることができるだろう。熱を均一に伝えるためにも空気を抜くことは大切だ。

しかし問題は尽きない。指示は調理温度と加熱時間だけではないからだ。と殺後24時間以内に4℃以下に冷却するだとか、加熱開始まで食肉は10℃を超えてはいけなかったり、塊のままで調理開始し中心部の温度が35℃以上52℃未満の状態の時間を170分以内としなければならなかったり、冷却は中心部の温度が25℃以上55℃未満の状態の時間を200分以内にしなければならなかったり。

これは35℃以上52℃未満や25℃以上55℃未満などという温度域が細菌の増殖に適する温度だからだ。可能な限りその時間を短くすべきだが、この世界には熱伝導率というものがあって一筋縄ではいかない。

ところが肉500グラムを10℃から加熱した場合で加熱開始後60分も経てば中心温度が52℃を超え、冷却においても3℃の冷却器に入れれば30分以内に25℃まで下がるようだ。これならば家の貧弱な器具でも間に合うのではないだろうか。

それでもやはり小売店までの保存温度や調理温度・時間は良くても、自宅までの運搬や自分での保存と成形調味で汚染してしまう可能性が残る。だからといって日常行う調理にHACCPの導入は難しい。

ここから先はもう手技的な問題になってくる。指輪をしたまま調理しないとか、手を良く洗うとか、いわゆる鮮度が悪い――正しくは病原菌が発症菌数にまで増殖したような――食材を使わないとか、肉と野菜で別の包丁・まな板を使うとか、早く食べるとか。しかしそれは他の料理にも当てはまるし、低温調理だけ特別という話ではないと思う。

どこまで求めるかだ。規格基準に準拠した低温調理なら多くの食中毒原因菌を殺菌できることは分かった。また厚生労働省も特定加熱食肉製品は1グラムあたりE.coli100個まで許容している。百個で発症してしまう食中毒もあるが10万個以上の菌を取り込まなければ発症しない食中毒がほとんどだ。

一方で低温調理によって菌数が0になる訳ではなく熱耐性菌や芽胞を殺せない。他にも黄色ブドウ球菌が産生するエンテロトキシンは121℃で30分も加熱しなければ不活化できない。魚介類の話をしないのは刺身文化の存在とノロウイルスの不活化には85℃で1 分以上も必要で低温調理をしにくい。

しかし残存した菌が無害だったり、有害でも発症菌数に達したりしなければ問題無い。エンテロトキシンに汚染された食材はおそらく他の調理法でも食中毒に至るだろう。魚介類は生食用を使ったりノロウイルスの危険がある二枚貝などを避けたりするしかない。

繰り返しになるが発症に必要な数の菌を取り込んで初めて食中毒になる。運搬と保存では菌を付けたり増やしたりしないように、調理では菌を付けないのはもちろん減らすようにするだけで食中毒は予防できる。極端なことを言えば発症菌数以下ならいくらでも細菌が付着していても安全だ。

もちろん発症菌数は菌によっても人によっても違う。一般に乳幼児や高齢者は許容数が少ない。だから乳幼児や高齢者に低温調理した物を食べさせるのはオススメしないというか、止めるべきだ。

また100個程度でも発症しうる腸管出血性大腸菌などはもし汚染されていたり、汚染したりしたら諦める他にないだろう。食肉が汚染されて販売されるのは稀なので調理者が気を付けるしかない。ただ腸管出血性大腸菌も55℃以上75℃未満での不活化は有効だ。

私には従来の調理手段よりむしろ低温調理の方が安全だと思える。決して1つだけではない研究を元に温度と時間を定めてコンピュータ的に管理するからだ。日常の調理が「赤みがなくなったら」とか「固くなったら」と感覚的なのとは大違いだと思う。新しい調理法だから研究が活発で論文も新しい。

ここまででまだ全ての低温調理に危険を感じる人は身の回りの何もかもを121℃30分間の高圧蒸気滅菌して無菌室に暮らしたり、ありったけの抗生物質薬を摂取したりで完全な無菌状態を目指すべきだろう。これ以上は私から何も言えない。けっこう頑張った。

それはともかく。私から喚起できるのは販売されている食肉は滅多に汚染されていないことと、低温調理は55℃以上で時間をしっかりかけることの2点だ。その2点と基本的な食中毒予防のルールを守れれば安全に柔らかく美味しい肉が食べられる。ぜひ楽しんで欲しいと思う。

 

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ここからはオマケだ。まず、ご自身の健康問題は主治医にご相談ください

運悪く、または手技が悪く食中毒や食あたりになったらどうなるか。おおざっぱに言えば水分と電解質を欠かさないようにして対症療法でほぼ決まる。患者や感染菌などにもよるが細菌性の食中毒に抗生物質薬を投与しても症状は軽快せず治療期間をあまり短縮しない。乳酸菌製剤が効果を発揮する報告は多いから、もしかすると抗生物質薬は腸内の有益な細菌まで除菌して逆効果の場合すらあるのかもしれない。また初期のO157感染に抗生物質薬は効くが、菌が増えきってから抗生物質薬を投与すると毒素の放出を促して逆効果という報告もある。それでも使うかどうかは賛否両論だ。

対症療法は制吐剤や解熱鎮痛剤や乳酸菌製剤など。消化管の運動を抑制する下痢止めは毒素や菌の排泄を妨げるから避けるべきだ。何にせよ病院に行くべきだが、血便が出たら絶対に大急ぎで病院に行くなどして医師にコンタクトを取って欲しい。

医療情報については予防線を張らせて頂く。ご自身の健康問題は主治医にご相談ください

 

 

参考ホームページ(引用のルールがガバガバだけど許して欲しい)

 

味覚嫌悪条件づけ

http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00105/_kamoku/kiso/99/yanagida.html

 

平成28年度食品の食中毒菌汚染実態調査の結果について

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11130500-Shokuhinanzenbu/0000155568.pdf

 

食品等事業者の衛生管理に関する情報

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/syokuchu/01.html

 

手荒れと手指衛生の科学 - Kao 花王株式会社

http://www.kao.co.jp/pro/hospital/pdf/01/01_07.pdf

 

農林水産物輸出入概況(2016年)

http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/kokusai/attach/pdf/houkoku_gaikyou-1.pdf

 

と畜検査と寄生蠕虫

https://www.niid.go.jp/niid/ja/iasr-sp/2406-related-articles/related-articles-446/7218-446r07.html

 

お肉の食中毒を避けるにはどうしたらよいの?

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11130500-Shokuhinanzenbu/nikuA4_0105_1MB.pdf

 

食肉製品 1 食肉製品の成分規格

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/jigyousya/shokuhin_kikaku/dl/09.pdf

 

食品別の規格基準について

食肉及び鯨肉(生食用食肉及び生食用冷凍鯨肉を除く。)

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/jigyousya/shokuhin_kikaku/dl/05.pdf

 

全国食肉事業協同組合連合会

食肉衛生マニュアル2014

http://ajmic.or.jp/book/2014_eisei.html

 

HACCPの各国の導入状況 |公益社団法人日本食品衛生協会

http://www.n-shokuei.jp/eisei/haccp_sec02.html

 

牛海綿状脳症BSEいわゆる狂牛病)について

http://www.zennoh.or.jp/bu/chikusan/bse/index.htm

 

(70)フライパン

予熱温度の確認は水滴で

http://www.fcg-r.co.jp/compare/foods_140905.html

 

加熱調理と熱物性

https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/46/4/46_299/_article/-char/ja/

 

真空調理法に基づく畜肉加熱処理時のタンパク質変性分布. および微生物挙動の予測

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsfe/14/1/14_19/_article/-char/ja

 

細菌性食中毒とその予防 (2)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/35/6/35_6_301/_article/-char/ja

 

メイラード反応による活性酸素の生成と消去

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jos1996/46/10/46_10_1137/_article/-char/ja

 

加熱による細菌の損傷

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsfm1994/12/2/12_79/_article/-char/ja

 

Pathogen Modeling Program (PMP) Online

https://pmp.errc.ars.usda.gov/default.aspx

 

2.微生物基準

http://www.ucoop.or.jp/shouhin/yakusoku/pdf/shouhinguide_v20_p24_32.pdf

 

食中毒を起こす主な微生物一覧

http://fs-kentei.jp/wp/wp-content/uploads/2014/10/shokuchudoku.pdf

 

平成 19 年度 ノロウイルスの不活化条件に関する調査 報告書 - 厚生労働省

http://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/kanren/yobou/pdf/houkokusyo_110613_01.pdf

 

農林水産省が優先的にリスク管理を行う対象に位置付けている危害要因についての情報

http://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/risk_analysis/priority/hazard-info.html

 

腸管出血性大腸菌O157に対する抗生物質の有効性に関する検討

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kansenshogakuzasshi1970/73/10/73_10_1054/_article/-char/ja

 

感染症治療ガイドライン 2015. ―腸管感染症

http://www.chemotherapy.or.jp/guideline/jaidjsc-kansenshochiryo_choukan.pdf

 

*1:創作を書いたとは言っていない

*2:Garcia 1955

*3:Etscorn,Stephens 1973

*4:Bouton 1982

*5:Kalat 1977

*6:熱による不活化